平々凡々

ぶたの絵や文章をかく人です。

のっぺらぼうの日記

文を書いて、絵を描いて、ひと息つくためにコーヒーを含む。

もがいてもへこんでもしょうがないので、やらなくてはいけないことをできるだけ丁寧にこなす。

 

疲れたらそのまま横になる。顔を窓に向ければ洗濯物が揺れている。なんだか秋みたいな日だった。

 

雨が降ったり止んだり、晴れたり曇ったりする様子を見ながら、自分はその煽りを受けない場所でずっとその様子を見ていたいと思った。

岩屋に引きこもったあの主もきっとこんな気分だったんじゃないかなって。

 

ひとり遊びのプロなので、そのまま1人でしりとりをしたり、

指を複雑に絡ませて、目を瞑って反対の手でどの指を触っているか当てるゲームをしたりする。愉快ではないが、退屈でもない。

飽きるとまた絵を描く。

 

疲れたら、今度は誕生日にもらった感熱紙に印刷されるカメラで部屋を撮る。

でも本当は人を撮りたいから、すぐやめてしまう。

飽きるとやはり絵を描く。

 

人と関わることは疲れることだ。

けれど、まったく人と関わらないと言うのも、味気ない。具のないクリームシチューに近い。

 

人と関わることはときに楽しく、ときにしんどく、ときにひどくめんどくさい。

けれど、どうだろう、何にもぶつからない、交差しない、つまずかない、つるりとした平坦な道はそれはそれで気持ち悪くないだろうか。

 

自分にとって肯定的なことだけを言ってくれる人間関係もそれに近い。それは優しい人たちではない。都合のよい人たちだ。

 

自分にとって都合のよい人たちに囲まれて、好きな言葉を好きなように吐き、ふんぞり返って、悦に浸る。

まるでそれではのっぺらぼうだ。

自分も相手もいないに等しい、代替可能なのっぺらぼうだ。

 

軋轢のない人間関係が望ましいが、人と関わると言うことは言いようのない気持ち悪さ、居心地の悪さも噛み砕いて伝えて互いに受け止め、消化していくことではないか。

 

というところまで考えて、でもこれも結局四畳半の部屋にこもった私がひとりで考えていることだと気づく。

 

 

とりあえず絵を描く。できるだけゆっくり描く。

まただらりと横になって、開かずにいた本を開いたりして、

たまに懐かしい曲を聞いて、また絵を描いて、

電車が通って遠くで風鈴が鳴る。

 

そうそう、でも今日はこれでいいか。

 

誰かが代わりに支えてくれた日にあぐらをかいて、そっとのっぺらぼうが1日を閉じる。

ジョリーパスタから見た空もきれいだった。

東京に来た。東京と言っても、八王子の、しかも二駅先は神奈川の、そんなところなので、もはや東京と言うのは言い過ぎかもしれない。
けれど、実際住んでる人たちにとっては、ここは東京なので、それは失礼だ。
でもやっぱり、「どこにいくの?」と聞かれたら「神奈川よりの東京です」なんて答える自分がいる。

今住んでいるところも、もちろん好きだが、すれ違う人がまったく知らない人ばかりの環境に身を置きたくなる時もある。
それが叶うのがこの街だと思う。

マクドナルドにサブウェイ、映画館に、イトーヨーカドー、駅から徒歩5分圏内にコンビニ各社すべて揃っている。
チェーン店が軒を連ね、それはどこまでも画一的だ。

この街はどこまでもいつまでも変わらないなと思っていた。
だけれども、やはりそんな街でも変化はある。

イトーヨーカドーの2階にあったチェーンのカフェが閉店していた。
彼伝いで話は聞いていたが、実際に足を運んでみると見るも無惨、名残惜しむこともできず、それがあった場所は白いパーテーションで覆われてしまっていた。

大学生の頃から東京に来ると必ず寄っていたカフェだった。一人で勉強や読書したこともある。
安さもさることながら、気取った感じではなく、フードコートのような空間がお気に入りで蛍光灯の白い灯りが妙に落ち着いた。

イヤホンをして電子辞書で調べながら勉強する学生、パンパンになった買い物袋を椅子にのせ、まどろんでいるおじいさん、ベビーカーを気にしながらサンドウィッチを食べるお母さん、何かの会合の帰りか8人ぐらいのマダムたちが机を動かして、わいわい井戸端会議に華を咲かす。そんな何気ない日常がそこにはあった。

なくなったのはお店だが、そんな些細な日常もなくなってしまった。

日本各所、お馴染みだったお店がなくなってしまうことは、どこでもあることなのだろう。駅を降りてすぐ目の前にあったJINS成城石井になっていた。その奥にあったLOWRYS FARMはマツモトキヨシになっていた。

チェーンだから大丈夫なんてことは、ない。
むしろ、チェーンの方が売上にシビアな部分もあるのかもしれない。

お馴染みのカフェは確かにいつ行っても座ることができたし、店員さんも常時3人はいたので、どうやって採算を取っているのだろうと不思議には思っていた。

白いパーテーションをぼうっとしばらく眺め、踵を返す。

そのままエスカレーターを登り、5階にある洋風のご飯屋さんに入る。こちらもお気に入りの場所だ。マグカップパフェという小さなパフェとドリンクのセット(500円)が特にお気に入りで、訪れるときはそればかり食べていた。ホットコーヒーならおかわり自由なため、どんなに酷暑でもホットコーヒーを頼んだ。

今回も同じセットを頼むが600円になっていた。100円の値上がり。前は書かれていた「ホットコーヒーはおかわり自由」の記載はなくなっていた。なるほど色んなものが高騰している昨今だし、これはやむなしとアイスコーヒーを頼む。

注文をとってくれたのは、お馴染みの店員さんでそんなことに少しだけ安心した自分がいた。向こうは私のことなど覚えていないだろうが。

まったく知らない人ばかりの環境を望んでいたはずの自分だが、気づけば知っているもの、知っている風景、知っている顔を望んでいる。何かの確認作業のように自分の記憶と現実を照らし合わせ、それが合致するたびに安心している自分がいた。

その後、彼と合流してジョリーパスタに向かう。いつも頼むピザと自分達の健康を気遣って初めて頼む野菜多めのパスタを選んだ(そもそも健康を気遣うなら自炊した方がよいということは理解しているが、この日は時間がなかったのでと言い訳をしておく)。

注文後、ふと窓の外に目をやる。夕暮れの空は、今住んでいるところと同じぐらいきれいだった。そもそもこうやって比較することにどれほどの意味があるのだろう。今の環境と比べて、ここの環境よりも優れていると思いたかったのだろうか。そうでなければ、私は今そこに住んでいる意味を見いだせないのかもしれない。
あれはあるけど、これはない。あれはないけど、これはある。
過去との照らし合わせだけでなく、私は今住んでいる環境との照らし合わせをしていたのだ。

初めて頼んだパスタは美味しくて、思わずそのまま今まで頼んだことがなかったサイドメニューにも手を出した。チーズをあげたそれも美味しかった。ドリンクバーも初めて飲む紅茶を選んでみたりした。

紅茶は不発だったので、結局最後はホットコーヒーで口直しする。

そういえば、あの洋風のご飯屋さんでアイスコーヒーを飲み干したとき、隣から「ホットコーヒーはおかわり自由ですので」という声が聞こえた。
なるほど記載すると何かしらの不自由が出てきたのだろうが、しかしなんだか勿体無いことをしたような気分になったものである。

例えば

 

タバコを始めて吸った日のことはよく覚えている。

東京で派遣の仕事をしていたときのことだ。

 

派遣仲間との飲み会の席で、お姉さんの吸ってる姿を見て興味が湧いた。実はそれまで忌み嫌いながらも、ずっと少し憧れだった。初めて吸ったタバコはスースーした。カプセルを噛むんだよと教わった。

2個のカプセルを噛むそれは、なぜか父の匂いがした。それを吸った自分は少しだけそんな社会に認められている気がした。

 

そんなちょっとした好奇心と憧れだった。

でも、長くは続かなかった。おいしくはない。服や髪に匂いもつく。

すべてがイケスカナイ。

 

でも、嫌いにもなれなかった。

 

そのあと、また吸い始めたのは、尾道に来てから、周りに多く吸う人がいたから。

兄が吸ってたから、あの人が、あの子が、あなたが、吸っていたから。

 

安いからと買ったHOPEは、本数を考えたら高かった。

なんとなく買ったラッキーストライクは、燃焼が早くて一瞬で消えた。

彼が吸ってたのを思い出して買った黄色のアメスピは苦かった。緑のアメスピもまずかった。

兄の真似をして買ったハイライトは1番合わなかった。

他にも色々、人からもらったタバコは、全部なんだか合わなかった。

結局割高なHOPE1番好きだった。

 

 

タバコを吸うことで知ったこともあった、出会えた人と言葉と時間があった。

 

シケモク拾いのおじさんと出くわして、2本せがまれたこともあった。

結局渡したのは1本だったけれど。

 

やめようと思った。百害あって一利なし。

友達の家に酔っ払って投げ捨ててきたときもある。結局やめられなかったけれど。

 

一応最後と決めた一本は、いつものあそこで、吸うことにした。

一本を大切に、だがやはり、投げやりに吸った。

決めたならとことんと。ライターと共に捨ててしまおう。

 

くゆる煙とそれがもたらしてくれる時間は、色んなことの言い訳にもできる。

 

大人として認められたかったから、東京の街に馴染みたかったから、描く漫画の登場人物にタバコを吸わせたかったから、ひと区切りつけるため、なんとなくかっこつけるため、あの子があの人が吸っていたから。

 

待ち時間の有効活用と思ったが、実は時間の無駄だったような気もする。

 

似合わないことは、誰に言われるまでもなく、私が一番知っている。

 

描いた漫画がくだらなかったことも。

 

 

片手に収まる水の量はおおよそ40mlらしい



また最近忙しくなってきた。やらなきゃいけないこと、考えなくてはいけないことが山積みのようにある。ありがたいことだ。

やりたいことも描きたいこともたくさんある。

大切な人との会話も忘れるぐらいに、あなたに送るはずだったメッセージを送り忘れてしまうぐらいに。

 

最近嬉しいことがあった。連載の原稿で「かく」という漢字をどう変換しようか迷ったときだ。

果たして「書く」でいいのか、やはり漫画家という肩書きにしてもらっているぐらいだから「描く」にしたほうがいいのではないか。

でも連載は文章がメインだ、「書く」が正しいのかもしれない。

でも、やっぱり私にとって「かく」は「描く」の意味合いが強いし、「描く」人でありたいと思っている。

堂々巡りを繰り返し、そうは言っても〆切も過ぎている原稿だ、結局「かく」とひらがなのままにして、お茶を濁した。

 

しかし、担当さんから修正が返ってくるとすべて「描く」に変換されていた。そんなことが嬉しかった。自分で首を傾げなら選んだ「描く」よりも相手が直してくれた「描く」がたまらなく嬉しかった。

 

自分で自信を持って「描く」にできなかったことは情けないとは思いつつ。

 

 

 

近頃は自分のペースで色んなことを取捨選択できるようになってきた。「それは焦りすぎだよ」とブレーキをかけることが大半ではあるが、アクセル全開で毎回大事故していた時よりは幾分心の状態もよい。

漫画や文章に割く時間もここ1ヶ月で俄然増えている。

 

そのために手放したものはあるが。

悲しいことに私にはこの片手に収まることしか向き合うことはできない。もう片方の手は自分が転んだ時のために開けておかなくてはならない。

両手いっぱいに抱えて、結局抱えきれず、全部落としてしまうようなことは、落としてしまったもののせいにするようなことは、したくない。

 

私が手放したものが、どこかで別の誰かの手元で温められたらいいと勝手に願いながら、今日もデジタルの画面と向き合う。

醒めたお湯をもう一度沸かしてぬるま湯を飲む

 

友人のライブを観に行った。

毎回毎回ガソリンを入れに行く感覚でライブハウスに行く。

ライブ後の自分はたぎっている。

 

「私もやってやるぞ」

「頑張らないと」

 

が、数時間後、もしくは数日後にはすっかり消えて、気づけば「他のバイト探した方がいいかも」とSafariを開く。

 

なりたい姿を思い描きながら、その難しさやめんどくささ、遠い道のりに嫌気が差して、今日も横になってYouTubeを見る。

 

生活も人間関係もすべてを投げ出して、それだけに没頭できる人間になりたかった。

ゴッホになりたかった。あの子になりたかった。あの人になりたかった。

 

もしくは、

いっそのこと、すべて諦めてしまえたらよかった。

 

何者かになりたいと思いつつ、何者にもなれない自分に地団駄を踏み、それでも苦労はしたくないからとできる限り楽な道ばかり探している。

とんでもないぐうたら人間。

それも「よし」とできる人間ならまだよかった。

 

自分はそんな自分にクヨクヨする人間なのだ。

「じゃあやりなさいよ」で、すぐできる人間ならこんなことかいていない。

 

クヨクヨ、グズグズ。

今日も醒めたお湯をもう一度沸かして、それすらも忘れて、そのぬるま湯を飲む。

 

いつか漫画にするための言葉たち


いつも漫画のことを考えているというより、言葉が先に浮かんできて、そこにつく絵を考えている。

 

でも、今日彼と話をしていて、いつかの映画の「何でも頭の中にあるうちは最高傑作なんだよ」という言葉を思い出して、いつまでも頭の中で留めていはダメだと思った。

 

だから今日はそんな漫画になる前の言葉を羅列して行こう。

 

①猫みたいなその人の話

猫は好きだ。好きな時に現れ、好きな時に姿を見せなくなる。

ポッと出ては消えてふっと現れる。

 

猫は好きだが、猫のような人間は嫌いだ。

 

*たまに消える近所の猫から思い付いたネタ

実際そんな人間は本当に嫌いだけど、でもそんな人も誰かにとってかけがえのない人ならば、最近はそんな人だって生きてくれさえしたらいいと思う。

しかしそれにしても、目の前から消えた人が本当に死んでしまったら、私はどうするのだろう。

 

②お風呂の話

「お風呂が好きなんだね」と言われた。

確かにお風呂、温泉という場所は好きだ。

しかし、プールや海も好きだ。

多分、何かに漬かっている、水に触れている状態が好きなのだと思う。

 

温泉で見る浴槽の照り返しでてらてらと水面を映した天井のゆらめきが好きだ。

プールの底で見る空の青空を反射した虹のようなきらめきが好きだ。

 

揺れているもの、絶えず流れ続けているものが好きだ。

 

そして自分の体の漬かっている部分と漬かっていない部分の境目も好きだ。

 

前世はやはり海の生き物なのだろう。そして私が帰る場所も海なのだろう。

 

揺れ動き、一瞬足りとも同じではないその危うさとどうしようもなさが私を安心させてくれる。

 

*バイト先での何気ない会話からお風呂、温泉に浸かりながら考えたこと。

続き、ここから海の生物にシフトしていく物語もいいなと思う。

 

③電気あなごの章

「ねぇ、電気あなごって知ってる?それを見たらね、なんでも願いが叶うかもしれないし、何も起こらないかもしれないけれど、それを見た人は幸せになれるかもしれないらしいよ」

そういいながら、彼(その少年)は膝のかさぶたをいじった。

 

風が吹く。海に近いこの街だが、不思議と磯臭さはしない。

「電気あなごって何?」

「知らないけど、あんなのじゃないの?」

 

ーーーーカンカンカンカン

 

赤い点滅、下がる黄色と黒のバー。

 

「あんたの願いって何?」

 

黄色い光線が緩いカーブに沿って過ぎ去る。

バーが上がる。

 

 

尾道の電車とあなごのねどこにあるあなご君のぬいぐるみを見ながら乗りながら考えたこと。これが誰かのネタになる前にこれは私の考えた「電気あなご」というネタだと指し示したいがためのお披露目。これはまだまだ変わる予定です。漫画か小説に必ずしたい。「電気あなご」っていう響きが好きなだけ。

 

 

どれも作品になる前の走り書き。いつか作品になるその時まで。それでも書いては出すことの大切さを忘れないため。

今日は久しぶりにさくらももこさんの作品を、まだ読んだことがなかった作品を読んで、彼女の拙くても編み出す力に勇気をもらった。書け、出せ、見せろ、話はそれからだと言わんばかりの圧倒的な勢いと「やらなくてもいいじゃん、めんどくさいし」というゆるさ。いずれにせよ、彼女は強い。

 

2022年も気付けば半年経ってしまうから、やりましょうね。いい加減に。